Rouge1:まずはかわいがってきにいってもらいましょう



   お星さまになったじいや、この空のどこかからか見ていますか?
   じいや、どうか心配しないで。
   桃は、頑張ってます。大丈夫、今夜こそご飯を見つけます。
   そう、今夜こそ絶対きっと多分おいしいご飯を・・・・・・。


 ばさっと音がして、それまで星空を見上げていた女の子が倒れた。朝夕は冷え込むようになった晩秋の冷えたアフファルトの上にか弱い女の子がひとり・・・・・・うつぶせで大の字という、かなり豪快な姿でべっちゃりと倒れている。
 しかも、ゴスロリ。今更、ゴスロリ。
 女の子が着ているドレスは夜目にも鮮やかな深紅で、レースとリボンに埋まってしまいそうな程にごちゃごちゃと飾られていた。スカートの裾からは白いペチコートが見えて、頭の天辺にはお約束のヘッドドレスが乗っかっているという完璧さだ。しかも、夜なのに何故かアンブレラ持参。
 数年前までは街でたまに見かけたゴスロリ族だが、最近ではほとんど遭遇しない。ということは、これは最後の生き残りだろうか?そんなこと、どうでもいいけど。

 「・・・・・・・・・。」

 自宅マンションに帰ろうと深夜の道を歩いていた日番谷冬獅郎(大学2年生19歳)は、ゴスロリ族の最後の生き残り(かどうかはわからないが)が道ばたで死にかけているのを発見して足を止めた。
 倒れている、どう見ても倒れている。
 車にひき逃げされたか、それとも心臓発作かただの貧血か。理由はどうあれ、違う道を通ればよかったと冬獅郎は思った。これがもし美人のお姉さん(OL希望)だったなら、迷わずすぐさま駆け寄って、膝に抱上げ大丈夫ですかと声をかけ、反応がなければ心臓が動いているかどうか確かめて(胸をまさぐるとも言う)、もし必要ならば人工呼吸(うかっり舌は入れます)も厭わないところだが、ゴスロリではどうにもこうにも如何ともしがたい。
 ここはひとつ、見なかったという方向で。
 そう決めると冬獅郎は、くるりと踵を返した。遠回りになるが、ひとつ前の角まで戻って別の道を行こう。俺は今日、この道は通りませんでした。俺は今日、この道は通りませんでしたと心の中で2度繰り返してから歩き出す。冷たい風が冬獅郎の銀色の髪をなびかせ、青白い月が行く先を照らした。
 大体、今夜の冬獅郎は傷心だった。そんなに気にしてないけど、とりあえず傷心だった。珍しく3ヶ月ももった彼女についさっき、「本当に好きな人が出来たの」と合鍵を返されたばかりなのだ。何が “本当に好きな人” だよ、嘘つくなと思いながらの帰り道で、人助け出来るほどの心の余裕はない。いやいや、これがどこぞの社長秘書風なお姉さんで、身につけているのがシックなスーツで、タイトなミニスカートから伸びてる足がきれいだったりなんかしたら新しい恋の予感が心に負った傷なんてすっきりさっぱり爽やかに消し去ってくれるだろうが、生憎と冬獅郎にゴスロリ趣味はない。フランス人形は嫌いだ、不気味だから。日本人形も髪が伸びそうだから嫌いだ、関係ないけど。
 あんなん拾ったら祟られる、あんなん拾ったら祟られると2度、心の中で繰り返してから冬獅郎は足を動かした。右、左、右、左と交互に動かせば前に進む、めでたくゴスロリから遠ざかれる。
 ひゅ〜っと、冷たい風が冬獅郎の背を追って来る。昨日まではまだ暖かかったのに、今日からぐんと寒くなった。冬獅郎は厚手のジャケットを着込んでいるが、ゴスロリは深紅のドレスしか着ていなかった。薄着は奴らのポリシーだろうから、何も冬獅郎が心配してやる必要ないと思うが・・・・・・。

 「・・・・・・・・・。」

 冬獅郎は立ち止まった。そしてハアッと大きな、大きな大きな溜息をついた。










 本当に好きなんて、嘘だと冬獅郎は思う。そんな感情はあり得ない、人は誰だって自分が一番大切なのだ。本当に好きなのは、己自身だろう。だから、“本当に好きな人が出来たの” という、ほんの数時間前までは彼女だった女の戯言なんて、冬獅郎は鼻先で笑ってしまうのだ。
 恋人とはセックスの相方であり、それ以上でもそれ以下でもない。
 要するに、ヤルための存在だ。気持良くなるための道具なのだから、好きも嫌いもない。勿論、女なら何でもいいという訳ではない。やはり、冬獅郎としては性格より見た目にコダワリを持ちたいところだ。性格がいいとあっちの方もいいというなら考えを改めるが、ムスコを張りきらせるために重要なのは性格ではなく見た目だ。大人の女がいい、足がきれいなのがいい。年上大歓迎、年下でも好みに合えば受け付ける。委細面接、応相談。ただし、ゴスロリは脱がすのが面倒なので最初から不可。

 「・・・・・・・・・ん。」

 小さな声を漏らして、紅い固まりが寝返りを打った。ここまで運ばれても起きないなんて、なんつー呑気な女なんだよと冬獅郎は眉間にぐっと皺を寄せた。
 部屋に持ち帰って、電灯の下で見たらゴスロリは意外と可愛い顔をしていた。16、7歳というところだろうか、高校生だろう。辛うじて冬獅郎の守備範囲内だが、こんなにロリロリしてるのは頂けない。胃にもたれて、消化不良を起こしそうだ。
 とりあえずベッドの上に転がして、冬獅郎はゴスロリの手を取って脈を測ってみた。非常に元気に生きていた。まあ、倒れた原因なんて医者でなくともわかるだろうが。
 グーグーと賑やかに聞こえる腹の虫の大合唱に、冬獅郎は呆れ果てた。今時、空腹で行き倒れるなんてアリなのだろうか。どこぞの未開の地ならいざ知らず、この日本の、しかも東京のど真ん中。物が氾濫して常時洪水状態のこの街で、行き倒れってナニゴト?こんな服を着ているくらいなのだから、金がないようには見えない。女子高生にありがちな行き過ぎたダイエット、そんなところか。
 (全然太ってねえのにな、つーか痩せ過ぎ。)
 冬獅郎は、お人好しにも見ず知らずの行き倒れを自分のマンションまで背負って帰って来た訳だが、ゴスロリ少女は驚くほどに軽かった。無駄にゴテゴテしてる服の重量を考えれば、本体はどれだけ軽いのか。こんなガリガリ、どんなに無防備に寝コケていても襲う気になれない。うっかり抱いたら骨刺さりそう・・・・・・実のところ、今夜の冬獅郎はヤル気満々だった。急に呼び出されたのは彼女もソノ気なのだろうと、ナニを箱ごと持って行ったりした。まさか別れ話だなんて思いもしないから、朝までノンストップ特急コースとか決めつけて・・・・・・つまり、だからどうしたと言えば、要するに今夜の冬獅郎は精力があり余ってるということで、この際、趣味じゃなくても手を打ってもいいかと思うほどな訳で、それなのに一応は守備範囲に入っている女(顔は結構可愛い)が目の前で寝コケているのに、ちょっと触ってやろうかという気さえ起きないのはどうしたことか。やっぱゴスロリか、このゴテゴテ服が冬獅郎を萎えさせるのか。それともガリガリか、胸があまりにささやかだからか。いやいやいや、冬獅郎は巨乳趣味も持ち合わせていない。何事も、程々がいいと思うし。

 「・・・・・・・・・何か食うモン、あったかな?」

 グーグーと、腹の虫の大合唱はリズミカルに続いている。はっきり言って、うるさい。うるさい以外の何ものでもない。うるさいくらいに腹を鳴らす女、これが冬獅郎を萎えさせている最大の原因だろう。

 「カップ麺くらいしかねえよな、確か・・・・・・。」

 そんなことを呟きながら冬獅郎はキッチンに行き、戸棚を探し始めた。
 このマンションは、冬獅郎が大学に入学する際に父親らしき男に買い与えられたもので、芸能人や有名音楽プロデューサーなどの業界人が多数住んでいるかなりの高級マンションな訳だが、誰もが羨むこの部屋には寝に帰るだけの生活を冬獅郎はしている。朝食は食べないし(と言うか、昼まで寝ている)、昼食と夕食はいつも外だ。酒が夕飯になることもある。母と一緒に暮らしていた頃には料理をしたが、自分のためだけに腕をふるう気にはなれない。そんな面倒なことをしなくても、一歩外に出れば何であるのだから。
 2年前に病気で他界した冬獅郎の母は、いわゆる愛人というやつだった。某大手企業の社長に囲われて、日陰の身ながらに冬獅郎を産んだ。認知はされているし、金銭的には贅沢と言っていい程度の生活をさせて貰った。それは母が亡くなった今も同じで、冬獅郎はこうして高級マンションに住み、バイトもせずにのんびりと大学生活を楽しんでいる身分だ。もっとも、日が西の空に低くなってからやっと動き出すようなのんびりさなので、昼間の大学にはあまり顔を出してはいないが。
 若い頃は、すれ違った男は全て振り返ったというほどの母の美貌が寄る年波と共に衰えはじめるとぱったりと足を向けなくなった父の顔はもうほとんど思い出せない。別に、恨んでいる訳ではない。癌を患って死の床に何年も横たわっていた母を一度も見舞いに来なかったとか、そんなことも恨んでいない。男と女なんて、所詮はセックスの相方でしかない。ヤレない女に会いに来る理由はないだろう、そういうことだ。
 とりあえず、充分な金をくれる。父親の義務は、それで果たしてくれていると思う。

 「ふわぁ!?」

 冬獅郎が、戸棚にひとつだけころんと転がっていたカップ麺を発見した頃、とんでもなく間抜けで素っ頓狂な声が聞こえた。やっと目を覚ましやがったかと思いながら冬獅郎はケトルに水を入れ、火にかけてから寝室にしている奥の部屋に戻った。案の定、ベッドの上にペタンと座ったゴスロリがキョトキョトと大きな目で周りを見回している。そして、足音もたてずに入って来た冬獅郎に気づくと、もう一度「ふわぁ!」と間抜けな声をあげた。

 「どどどどど、どなたですか!?」
 「いや、それは俺の台詞だから。」
 「どどどどど、どこですか、ここ!?」
 「俺の部屋、アンタは行き倒れ。わかったか?」
 「わかりませんっ!」

 まあ、そりゃそうかと冬獅郎は喉の奥でくくくと笑った。しかし、何とも豪快な驚き方をする女だ。

 「道端で倒れてたから拾ってやったんだよ、親切にも。礼を言え。」
 「ありがとうございます。」

 礼を言え、と言った途端に条件反射のようにぴょこんと頭をさげたゴスロリに、冬獅郎は目をすがめた。頭の弱い女だったか、もしかして。やっぱ、拾うべきじゃなかったか。

 「お前、腹減って倒れたんだろ?ちょっと待ってろ、いいな。」

 そう言うと冬獅郎はキッチンに取って返し、笛を鳴らす寸前だったケトルを火からおろして、蓋をあけたカップ麺に湯を注いだ。
 そして、いい子で待つこと3分だ。
 これを食べさせて、すぐに追い出そうと冬獅郎は決めた。父に、ヤレない女に会いに来る理由がなかったのと同じで、冬獅郎だってヤル気になれない女をいつまでも置いておく理由がない。飢え死にしたらさすがに後味が悪いから、食い物は与える。だけど、空腹が満たされたらなら即追い出す。寒くなって来たといは言え、まだ秋だ。どこに住んでるかは知らないが、凍死する前に家に帰り着けるだろう。
 (そういや、あいつの友達とかいうのに携番握らされたな。電話したらホイホイと来そうだよな、あの女。)
 あいつと言うのはゴスロリのことではなく、ついさっき別れたばかりの彼女のことだ。先週、その元カノと呑んでいた時に偶然会って、そのまま一緒に呑んだ元カノの友達だという髪を金色に染めた女も冬獅郎の趣味ではなかったが、まあゴスロリよりはマシだろう。少なくとも、後腐れはない。セックスはスポーツだとちゃんと理解してるタイプだ、冬獅郎と同じで。
 (ゴスロリを追い出して、金髪を呼びつける。これで全て解決、万歳だ。)
 寝室に戻ると、ゴスロリはベッドから降りて、フローリングの床の上できっちりと正座をしていた。そして、冬獅郎を見ると三つ指をついて、深々と頭をさげた。

 「どうやら大変なご迷惑をおかけしたようです、申し訳ありませんでした。」

 丁寧に頭をさげられて、冬獅郎は「お、おう」などと曖昧な返事を返した。
 (頭が弱いというより、ただの世間知らずか?この物腰、いいとこのお嬢っぽいぞ。)
 冬獅郎は、カップ麺を片手にしばしゴスロリを見つめてしまった。冬獅郎がいつもつき合ってるような女たちとは、雰囲気からして違う。ゴスロリの周りだけ、空気が清められているような気さえする。

 「私は、雛森桃と申します。故あって街を彷徨っておりましたところ、思いがけずあのようなことに・・・・・・本当に申し訳ありませんでした。これからは、好き嫌いは言いません。」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」

 カップ麺を持ったまま戸口に突っ立って、澱みないゴスロリの口上を聞いていた冬獅郎だが、最後の言葉にピクリと引っかかった。好き嫌い?好き嫌いで行き倒れたのか!?

 「これからは、選り好みしないで手当たり次第に行こうと思います。少々不味くても、栄養はありますし。」
 「はあ!?」

 つまり何か、このゴスロリは空腹で倒れるまで選り好みしていた食通ってことか?何だ何だ、そりゃ何だ。さすがにこれは、冬獅郎の理解を超えている。
 冬獅郎は、ずいっとカップ麺をゴスロリの鼻先に突きつけた。

 「気に入らねえだろうが、これ食え!マズイ上にたいした栄養もないどころか体に悪いけどな、それでも腹はふくれる。」

 黄色の地色に派手な赤い文字が踊っているカップを見て、ゴスロリは不思議そうに首を傾げた。何ですかこれ、などと訊く。

 「お前、カップ麺も知らねえお嬢なのか!?」
 「カップ麺、ですか?」

 今時、いくらお嬢様でもカップ麺くらいは知っているのではないだろうか。食べたことがなかったとしても、その存在くらいは知っている筈だ。街を歩けばいくらでも売っているし、テレビコマーシャルだって派手にやっている。しかし、ゴスロリは本当に知らないらしく、指先で恐る恐る冬獅郎が持ったままのカップをつんつんと突いたりする。冬獅郎はガッとゴスロリの手首を掴むと、無理矢理カップを持たせた。ついでに割り箸も押し付けて、とにかく食えと怒鳴った。

 「ふ、ふぇ・・・・・・。」
 「何だよ、何か文句あんのかよ!」
 「そ、そんなに怒鳴らな・・・・・・ふぇ〜ん。」
 「泣く間に食え、さっさと食え、そんで出て行けっ!!」
 「ふぇぇぇ〜。」
 「食えっての!!」

 頭ごなしに怒鳴られて、ゴスロリ・・・・・・いや、桃は半泣きで箸を握った。慣れない手つきで不器用に麺を持ち上げ、そろっと口に入れる。

 「・・・・・・・・・。」

 ひと口食べて、桃は驚いたように目を丸くした。そしてふた口目を、またもやそろっと口に入れる。その後は、はふはふちゅるちゅるずるずると、休みなく麺を口に入れ続けた。汁まで全部飲み干して、あっという間にカップは空になる。

 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・美味かったんだな?」

 こくんと頷いた桃に、冬獅郎はそりゃ良かったなと顔を引きつらせた。これのどこが食通なんだか、何をどう選り好みしてたんだか皆目見当もつかないがとりあえず、これで飢え死ぬ心配はなくなった訳だから気分良く追い出せるというものだ。

 「んじゃ、さっさと出て・・・・・・。」

 さっさと出て行けと言いかけた冬獅郎の言葉は、グルキュルル〜という、どこかコミカルな音によって遮られた。さっきからずっとうるさいほどに聞こえていたために既に耳慣れてしまった、あの・・・・・・。

 「てめえ、カップ麺1コじゃ足りねえのかよ!?」

 確かにカップ麺はそれほどボリュームのある食事とは言えないが、だけどこんな華奢な女の子には充分な量なのではないだろうか。冬獅郎があんぐりと口を開けると、桃はカップを床に置いて真っ赤になった顔を伏せた。

 「あの・・・・・・これはですね、その・・・・・・・・・。」
 「見かけによらず、大食らいなのか?でも、うちにはもう何もねえぞ。」
 「いえ、実は・・・・・・人間族の食べ物は大変おいしく頂けるのですが、栄養にはならないと申しますか、えっと、だからですね・・・・・・・・・。」
 「はあ?」
 「ですからその、私・・・・・・恥ずかしながら、一般的に吸血鬼と呼ばれる種族の者でして・・・・・・ご飯は、血と申しますか・・・・・・つまり、人間族の生き血じゃないとお腹はふくれないと申しますか・・・・・・。」
 「・・・・・・・・・・・・。」
 「あの、ですから!今までは、じいやが街に出て血を狩って来てくれたので、それを飲んでいたのですけれど、じいやが居なくなりまして・・・・・・えっと、私ども吸血族はとても長命ですが、自分の死期を感じるとひとりで姿を消す習性がございまして、ですからじいやも今頃はもうお空のお星さまになったと思われる次第で・・・・・・えっとえっと、だからですね、じいやが居なくなっても立派に生きて行けるよう、これからは私が自分で血を狩らなくてはならないのですが、なにしろ初心者なもので手間取ってしまって・・・・・・・・・あの、聞いておられますか?えっと、銀髪さん?」

 銀髪さんて誰だよと、突っ込むところはすかさず突っ込んでおいてから、冬獅郎はその場でしゃがんで頭を抱えた。
 (ヤバイ、本物だ。やっぱ頭の弱い女だったんだ。こりゃ、どっかの病院か施設から逃げて来たんだな。やべえ、とんでもないの拾っちまった。)
 その間も、桃の腹の虫は張り切って大合唱している。冬獅郎のこめかみが、ズキズキと痛んだ・・・・・・これまで厄介ごとには一切近づかずに大人しく生きて来たのに、これはないだろうと冬獅郎は思った。親切で助けたのに、こんな電波も真っ青なぶっ飛び女だったとは・・・・・・いや、そんなことはこの服装で見抜けていたのに、なのに拾ってしまった。呪うべきは、自分の浅はかさだろう。

 「帰れ。」
 「はい?」
 「施設までの帰り道、わかるか?」
 「えっと?」
 「迷子札とか、つけてねえのか?」

 徘徊癖のある痴呆老人などは、よく迷子札を持たされているらしい。電話番号や住所が書かれていて、こちらまで連絡してくださいという、あれだ。
 冬獅郎は、しゃがんだ姿勢から膝を床について、桃の方へとにじり寄った。ああいうものは、首からさげているのだろうか?桃がじっとしているのをいいことに、冬獅郎は躊躇なく桃の首筋に手を伸ばした。迷子札をぶら下げている紐はないかと、フリルがこれでもかとあしらわれた襟から指を差込み、素肌を探る。桃はじっとしていた、じっと冬獅郎を見ていた。
 どうやら迷子札はないようだと冬獅郎が桃から手を話した時、チカチカと電灯が瞬いて冬獅郎は何気なく天井を仰いだ。冬獅郎にしてみれば、電球が切れかけなのかと思って見上げただけのことだったのだが、それは桃の目の前で首筋を曝すという行為に他ならなかった。

 「・・・・・・・・・あれ?」

 不意に、すうっと闇が落ちて来た。電球が切れたか、そう思って冬獅郎はおかしいことに気づいた。
 天井に作りつけの電灯には、円形の電球が3本セットされている。その3本が同時に切れることはないだろう。だとしたら、停電か。けれど、カーテンを引いていない窓から見える街には、煌々とネオンが灯っている。
 おかしいなと思いながら桃の方に向き直って、そこで冬獅郎は見た。窓から射し込む淡い月明かりの中で、桃の瞳が艶やかな金色に染まっていたのだ。さっきまで確かに焦げ茶だった筈の虹彩が、月の光を吸い込んだように妖しく輝く。その金色の瞳で、桃は微笑んだ。さっきまでの幼さは消え去り、代わりにひどく艶かしい女の顔がそこにあった。

 「お・・・まえ・・・・・・・・・。」

 桃が、ゆっくりと口を開いた。先の尖った牙が、真っ直ぐに冬獅郎の首筋目掛けて近づいて来る。いただきますと、囁くような声が聞こえたかと思うとズブリと、牙が首筋に突き立てられた。くらりと、冬獅郎が眩暈を感じた次の瞬間―――。

 「痛ってえ――っ!!」

 燃えるような激痛が首から全身を突き抜け、冬獅郎はジタバタと暴れた。けれど、桃は冬獅郎の首にがっちりと食らいついたままで離れようとしない。どこにそんな力があるのか、冬獅郎は自分より優に30センチは背が低いであろう痩せた女の子に押さえつけられて身動きが出来ない。

 「痛えっ、痛えって!放せっ、痛い――っ!!」

 ゴクゴクと喉を鳴らして、桃は冬獅郎の血を貪るように飲んでいた。鉄の匂いが部屋に立ち込める、冷たい空気が足元から這い上がって来る。

 「放せっ、放せって!俺をミイラにする気・・・・・・痛え!!」

 とにかくジタバタと手足を動かして、冬獅郎は床に転がり込んだ。それでやっと牙が抜け、ハアハアと肩で息をしながら冬獅郎が体を反転させて見あげると、すうっと部屋が明るくなり、妖艶な笑みを浮かべて冬獅郎を見おろしていた桃の目が金色から元の色に瞬く間に戻った。

 「お前・・・・・・まさか、マジで吸血鬼・・・・・・・・・。」

 首を触ると、指に血がつく。赤く汚れた指を冬獅郎が呆然と見ていると、不味いと、小さく呟く声が聞こえた。

 「う〜、気持悪っ・・・・・・うあああ、でも、ご馳走様でした。」
 「・・・・・・・・・・おいこら。」
 「うっうっうっ、大丈夫です。大変おいしく・・・・・・うえ〜。」
 「おいっ!」

 口を押さえて涙目になっている桃に、冬獅郎は飛び起きた。

 「お前、今、不味いとか言わなかったか!?」

 どうやら吸血鬼と言うのは本当らしい、それは認める。かなり信じられないけど、実際に血を吸われたのだから認めざるを得ない。それはいい、よくないけどいい。それはいいけどしかし、不味いって何!?

 「お前なぁ!」
 「あう〜・・・・・・銀髪さん、乱れた生活をされておられますね?一番おいしいのはもちろん処女ですが、男の方でも若くて清らかな方はそれなりのお味なものです。それなのに、銀髪さんの血ときたら・・・・・・う〜、気持悪いぃぃぃぃ〜。」

 ぴくぴくと、冬獅郎のこめかみに青筋が立った。言うにことかいて、不味いとは・・・・・・。

 「・・・・・・・・・・・・・・・・で、腹はふくれたのか?」
 「はい、おかげさまで。」
 「だったら帰れ。」
 「はい?」
 「さっさと帰りやがれ―――っ!!!」

 雷が落ちたような怒鳴り声に、桃はきゃあ〜と逃げ出した。どうやら冬獅郎の不味い血のおかげで回復したらしく、しっかりとした足取りで一目散に逃げて行く。帰れ帰れと冬獅郎は桃を玄関まで追い立てて、ドアの外に放り出してガシャンと鍵を閉め、いつもはかけないチェーンをガチャガチャとかけた。そうしておいてからドアによろりともたれかかり、そのままずずっとたたきに座り込む。
 全身がぐったりとだるいのは、血を吸われたせいだろうか・・・・・・冬獅郎は、また首に手をやった。熱を持ってズキズキと痛んでいる。

 「・・・・・・・・・・・・・・・・マジかよ?」

 そう呟くと、冬獅郎は目を瞑った。子供みたいに座り込んだまま、ハアッと大きな、大きな大きな大きな溜息をついた。





(2007年10月21日更新 / まりり)

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